コンサマトリー化をコンシューマー・マーケティングでどのように扱うか?!

こんにちは。松本です。

 

前回も少し触れた「コンサマトリー化」について、このブログできちんとお話していなかったので、一度まとめておこうと思います。

そもそも社会学の用語ですので、ピンとこないという方も多いのではないでしょうか。(島宇宙化、自己充足化ともいいます)

 

私は大学で社会学を専攻していたためか、「コンサマトリー化」ということばを聞いたとき、非常に納得したのを覚えています。

 

個人ーマーケティングでいうところの、生活者、消費者ーをどのようにとらえるか、という点がテーマとなります。

通常、売る側に立つと、"ターゲットは・・・”ということば使いになりますね。

 

新商品を手探りで開発し、発売するにあたって、

担当者と関連部署は、自分の(多くの場合)広くはない経験の範囲で様々なことを判断します。自分が使わない商品の場合、実は本当のところポイントがわからないはずなのです。

 

ですから、買ってくれるだろう未来の顧客をターゲットと呼び、

「○○を喜ぶに違いない」「いやいや△△だろう」とディスカッションするのです。(わからないということがわかっている賢い人は、”聞く”機会を設けます)

 

と同時に売り上げ予測と計画があり、ターゲットなるものが3万人いるのか、100万人なのか(業種と商品によりますが)どこで売るか、告知をどのように行うか作戦を練ります。

 

これまでのマーケティングでは、大まかに日本人のどこかに的をしぼり、それほどはずさないことも、ある意味可能でした。

 

ところが、それがますます、ややこしくなっているのです。それこそがコンサマトリー化問題です。

 

”個人が家族を形成し、社会を構成する”

その大前提が崩れてきているのです。

 

世界という枠で語ると、より複雑になるので、

日本の市場の話として続けます。

誰もが、戸籍を持ち、市民、日本国民であることには変わりはありません。ここ数年で変化があったわけではありません。

 

しかしながら、消費者として見たとき、

社会に対して開いていないとでも言うのでしょうか、

閉じた人々が少なからず存在します。閉じている時間が長い人という言い方のほうが正確かもしれません。

しかも、これは良い悪いではありません。

 

A.なんらかの道具を使い、家を修繕しようと試みる。ペンキを買う。

B.Twitterでつぶやく。道具ではなくその行為自体に満足。

 

SNSは特に社会に対して開いているようでいて、匿名で使っている場合、その多くは閉じています。

Aのケースであれば、動機と買い物行動には明確な関係があり、売る側も何を提供すべきか想像がつきます。機能的に満足してもらい、さらに、アイデア、ファッション性などを磨くことができます。地域性などを論ずることも可能です。

 

Bのケースでは、いったい何を提供すべきが見えてきません。

これこそがコンサマトリーな状態です。

 

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私は大学でマックス・ウェーバー研究をしておりました。

ウェーバーの理論のなかの特徴的なものとして「エートス論」があります。心理ではなく特別な倫理が、生活のなかで特定の反応、行動を促し、歴史を能動的に動かす、というものです。(常にそうだ、ということでなく、プロテスタンティズムの倫理の話であります)

 

コンサマトリーの対概念はインスツルメンタル(目的のための手段)とのこと。

”エートスにあらず”とも言えるか、という感想を持ちました。繰り返しになりますが、善悪では語れないことです。

資本主義の終わりの始まりとも言えます。(が、資本主義の次の形について議論しても、私とそのときのメンバーには、答えが出せませんでした)

 

閑話休題。マーケティングの話をします。

私はこのように考えています。マーケティングにおいては、ただひとりのペルソナを細かい行動、志向まで詳細を分析し”理想の顧客像”(ターゲットというよりも)として作りあげることが、ますます重要になってきている、と。

 

そして、ヘビーユーザーに聞くこと、愛ある観察をすることにつきます。Twitterが大好きな18歳の女性が、チョコレートのヘビーユーザーならチョコレートを食べる彼女を観察することはできるのです